Yoshiaki Hikita Solo TOPOS Highland 2016_01 H.R

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疋田義明 Yoshiaki Hikita Solo
13,April.2016 – 30,April.2016
11:00 ~ 20:00
at Haricot Rouge
トポス高地 アリコ・ルージュ 2016 01
TOPOOS Highland Haricot Rouge 2016
欧風家庭料理店「アリコ・ルージュ」
長野県飯綱町川上 2755 飯綱東高原 飯綱高原ゴルフコース前
phone 026-253-7551
営業時間12時~20時30分
休館・定休日 火曜
http://homepage3.nifty.com/haricot/

toposhr2016-01 / works price list (PDF) >>


041316 from toposnet on Vimeo.


 ティム・ジェニソン(フェルメールの謎)が解析し仮説実践したフェルメール(1632~1675)の技法、あるいは五姓田義松(1855~1915)が鉛筆を握りバターチーズ同様の油絵具でレンブラントが憑依したかの光と影の量的観察を水筆戯画意訳が蔓延する島国で行成りはじめたように、時の辺境の唐突ともいえる関わり方(態度)が、文脈の跳躍的な系を広げ持つ。
 「描く」という絵画を運動で捉えるニュートン的古典力学(スタティックな逆説弁証)ではなく、「何をするのか」という量子力学的(微視的な物理現象=状況状態)なアプローチで、絵画を考える者は少なくない。素材論として支持体や与え置く色顔料などの扱いを、単なるイメージ(妄想)へ繋げる往復運動ではなく、自立した状況認識(知覚)のモデルとして、世界把握をする場合、画面に見えてくるものは行為者の精神とかの投影ではなく、むしろその逆であり、外側の出来事となって跳ね返り行為者を含む眺める者らを別次元牽引するものだ。
 観察の記録(見えたことの反芻変換)ではない描きのほとんどは、支持体(画布)へ絵具を与える仕草(練ったり擦ったり重ねたり削ったり)そのものが、萌芽しつつ醗酵する素材特性へ没入する行為者の、所謂前戯から狼狽えと決心、あるいは挫折を含み込む恣意総体として素材展開するだけのことにすぎない。故に某らの形象があったとしてもそれは口実(プレテクスト)ともいえる。
 疋田義明の上述したような「糞まみれ」に放たれたタブローの豊かさは、その奔放な素材との戯れの無邪気さに起因しているが、同時に稚拙で偶発的な恣意でしかない脆弱さを併せ持つ。だがどうだろう、この忌まわしいような虚偽の情報の錯綜する時代で、ルオー(1871~1958)を想起させる目的などないミスマッチな純然たる遊戯の画面は、何かを救済する気配を孕んでいると感じるのは大袈裟だろうか。社会へのコミットメントとして「提案」される多様な絵画群とは異なり、冒頭に示した「唐突」を、この無邪気な戯れ(口実的には家族を描いている)が可能な個人主義と結び合わせると、近代的な場所論(西洋・東洋)を遥か彼方に走り抜けた、人間的「昂揚」の静かな顕われとして、彼が描き続けることが出来るならば、世界はまだ大丈夫だ健全はここはあるじゃないかと思わせる。
 但し、タブロー(仏)が、壁画でなく板や画布に描かれた完成絵画を示す言葉として自立するのは、質的な顕われの確固たる所以(次元認証)があるからで、単に其処に筆や絵具が残されているからではない。人間の所為痕跡(意志)が契機となった出来事として知覚される状況へ踏み出していることを、行うものは大いに自覚すべきであり、故に画家は、「描き」自体を混沌との戯れだけに停まらせるものではないということは、フェルメールも五姓田も示し遺している。

文責 町田哲也


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