川合朋郎 Tomoro Kawai Solo
http://tomorokawai.com
03,July.2013 – 31,July.2013
11:00 ~ 20:00
at Haricot Rouge
トポス高地 アリコ・ルージュ 2013 02
TOPOOS Highland Haricoit Rouge 2013
欧風家庭料理店「アリコ・ルージュ」
長野県飯綱町川上 2755 飯綱東高原 飯綱高原ゴルフコース前
phone 026-253-7551
営業時間12時~20時30分
休館・定休日 火曜
http://homepage3.nifty.com/haricot/
>> toposhr2013-03 / setting & price PDF(585k)
自分自身という人間の本質的な霊性に本人はなかなか気づかない。レコーダーに残った自分の声や盗み撮られた写真などは照れくさい上自分ではないと感じるのは外ばかりへの防衛知覚と現代社会が捻れ癒着しているからかもしれない。長年傍で暮らす家族だけが近親者の霊気を知らぬうちに吸い込んで軀に浸透させるしか「その人」という取り替えのきかない固有を理解することができない。それはそれでいいしそれが愛情であり幸せなのだろう。一片の絵画が時にそういった人間を醸すのは、画家は羞恥にまみれた自身と向き合うしかないからであり自らというささやかな全霊が注ぐしか手法がないからでもあり、故に固有名とは別の人間の示され方が絵画として表象される。加えて人間は移り変わる生物であり、自身の生の刻印とは異なった関わり方もあり、時に目眩を孕み、問いを問いのまま放り出し、稚拙を敢えて許し、憤怒も吐き、抑制と認識を示そうともする。その混濁や整理の果てを絵画として成立させるのは併し本人ではなく時代の状況や環境(場所)である場合もある。ここで川合朋郎の絵画を少ない言葉で説明するつもりは毛頭ないが、彼との会話で想起され広がった時空があった。子が生まれた父親でもある画家を生業とするひとつの人間の位置というものが益々明晰になった印象は、やはり彼の作品に顕われてくる。
「洞窟を出る」人(おそらく男)を見送る女の視線が作品を観るものの目となる構造に気づくと、観るものが女であっても男であってもある種の眩しさを伴って光の外へ歩き出てこちら側の暗闇から離れていく近親者への離別の哀しさと彼に託す希望の裏腹を同時に感じる。構造が既にそのような蓄えを孕み、加えて繰り返し描き出される画家の指先と吐息のようなものを画面の抑制された筆勢や筆痕にみつけるのが楽しい。若くして老成したかの抑制を欲望にひっくり返して描くことを生業とする決意として生産される絵画は、彼の指から離れたままの状態を維持して其処に在る。まるで唄を歌うものが声を絞り尽くして唇を閉じた時の残響の余韻の存在に似た行為への近しさというものが、絵画のあまりに人間的な存在の秘密であり、また故に決して重なり合えない固有な他者性の精神の枝のような貫禄を磁性とする。
言葉にしてしまえば浅薄この上ない「魂」が、構造構築するものではないことを知っている画家は、目的と手法をすら必要としない。画家の持続可能な基本とは、過去大袈裟に言説を尽くされて疲弊した「オリジナル」であることの宣言や態度ではなく、魂に促された魂の生き方を示すだけでよろしいと教えてくれる。日々卑しい囚われのわれわれはだから彼の絵画の前でひとつやふたつ懺悔の祈りを捧げたくもなるのだ。ー 文責 / 町田哲也