Ai Yuki Solo TOPOS Highland 2015_06 H.R

投稿日:

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結城愛 Ai Yuki Solo
「私がいなくなった後も世界はあるのか?」
06,September.2015 – 30,September.2015
11:00 ~ 20:00
at Haricot Rouge
トポス高地 アリコ・ルージュ 2015 06
TOPOOS Highland Haricot Rouge 2015
欧風家庭料理店「アリコ・ルージュ」
長野県飯綱町川上 2755 飯綱東高原 飯綱高原ゴルフコース前
phone 026-253-7551
営業時間12時~20時30分
休館・定休日 火曜
http://homepage3.nifty.com/haricot/

結城愛展示作品リスト (準備中)


 例えば女性が母親になった些末な日常の中でようやく「そのひとらしい」仕草が定着することに、子や伴侶が家族となる過程で知らぬ間に気づいていくような、人間の存在の気配のようなニュアンスを、わたしたちは人生の中で幾度も感じることがある。そして簡単に忘れるけれどもどこかに刷り込まれている。(と信じたい)多様であると同時に固有である、母と妻の縁側に腰をおろした際の指先の手入れであったり、洗濯したタオルの置き方だったり、散歩で毟ってきた草花を活けたダイニングテーブルのちょっとした花瓶だったりする。
 無意識の仕草で残されたそれらのカタチは、だが特異な視線を注がないかぎり、家族のものでしかない。家族とはだから、時間をかけて互いの無意識を共感することを成熟させるモノだとも云える。デュシャンから系が伸び半世紀以上前に広がりをもって出現したコンセプチュアルアート、プロセスアートからの派生、感化あるいは読み直しとも受け止められる結城(イギリス留学中にそういった教育を受けている)の作品には、様式的に活性した時代(1960~70年代)とは異なった表象性を見いだすことができる。これは現代表象の多くが実験的な取り組みからやや離れたフォーマット主義的となっているからかもしれないし、日々の感想とそのリアクションのような手付きがそのまま手法となる時、前述した「家族の存在の気配」に似るのかもしれない。多様性が自明の社会的情報網に促され発生する生理的欲望に無頓着に従う日常生活の中で、所謂日々の頓着に「善し悪し」という普遍性を纏わらせる切迫した理由も必要もわたしたちにはない。蓋し共同幻想の拡張へ向う「大衆」「娯楽(エンターテインメント)」「判りやすさ」も現代の消尽システム下では、「脱個」「集団」が延々と妄想され、ユルキャラのような表象化が過激化する一方で、超現実主義的なクラフトワークに似た個人主義的なマイノリティーにも届かない単独的なものはつまりその生の状態に支えられるしかなく、それはつまるところ、いかなる自制(コントロール)が表象されるかを問う姿勢自体が色濃く作品に投影される。つまり表出を預かる人間の実直な生の環境がそれを決定するにすぎないということを自覚しているかいないかで、作品の様態は随分と異なってそれはむしろ袂を分かつかたちとなる。
 関与(プロセス)と痕跡(表象)が同時に知覚表出される作品は、だから様式的にコンセプチュアルであると理解するべきではなく、人間の実存的な現れであると受け止めるほうが、私にとっては様々に機能する出来事となる。そして、こうした作品の顕われによって、既存フォーマットの様々な様式自体の読み取り(感応)の仕方(パースペクティブ)が変容することも忘れたくない。

文責 町田哲也


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