Genta Maruyama Solo TOPOS Highland H.R 05

投稿日:

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丸山玄太 Genta Maruyama Solo
01,September.2013 – 30,September.2013
11:00 ~ 20:00
at Haricot Rouge
トポス高地 アリコ・ルージュ 2013 05
TOPOOS Highland Haricoit Rouge 2013
欧風家庭料理店「アリコ・ルージュ」
長野県飯綱町川上 2755 飯綱東高原 飯綱高原ゴルフコース前
phone 026-253-7551
営業時間12時~20時30分
休館・定休日 火曜
http://homepage3.nifty.com/haricot/
>> toposhr2013-05 / under construction now


 1976年~1978年に「カメラ毎日」に連載された富岡多恵子(1935~)の時評が「写真の時代」として1978年に纏められ、その中の「絵のような写真 W.エグルストンの世界」時評冒頭に、

ーウィリアム・エグルストンというひとのカラー写真を見たとき、絵のような写真だ、とまず思った。おそらく昔のひとが、きわめて精巧な写実画を見たとき、あ、写真のような絵だ、と思ったように。わたしはまず、自分の一種の逆転した反応に驚き、改めてそれらの写真を興味をもって見はじめた。
 ともあれ、わたしが、絵のような写真だと感じた時の絵と、昔のひとが、写真のような絵だと感じた時の絵とは、同じ「絵」でもまったくちがうと思われる。わたしが「絵のような」と感じたのには、どこかにスーパー・リアリズムまたはハイパー・リアリズムと呼ばれた比較的最近のアメリカやヨーロッパの絵画がアタマにあったからであろう。それらの超写実は、昔の絵が情緒的に写真に近づこうとしたのとちがい、非情緒的に「写真のような絵」の写真を追いこしてしまった。しかも、そこには、写真にあった画面の表現さえも拒否してしまった。徹底して、非情緒的な写真あるのみであった。写真以上に写真的仁なった。その事では写真のほうがはるかに絵画的である。わたしが「絵のような写真だ」と感じたのは、そういう「絵画的な写真」よりはるかに「写真的である絵画」のような写真、ということになる。いい代えれば、エグルストンという写真家のカラー写真は、「写真のような絵」を軽々と追いぬいた絵を、もう一度写真がおさえこんだように思えたのである。ー

とある。
 絵画が徹底した写実を求めた系譜が連綿とあり、それが史実事実の克明な記録の必要であったり、あるいは二次元に三次元を封じ込める魔術のような技法として練金された時間はある。現在の写真は、簡単にいってみればレンズの開発とその記録技術が、人間の肉体を離れて撃ち進み、結果に軀を遅延して預けている様相を呈しているのであり、肉体を投入する絵画のハイパー・リアリズムとは、明確な差異を示しているが、その境界を彷徨する感覚を試す人間は少なくない。

 丸山玄太の写真という時この引用が必要と感じるのは、彼が撮影し出力した画面は最早、系譜的絵画とも絶縁し絵画的写真とも関係を持たない、写真というデバイスの操作によって齎される固有という表象であるにすぎない冷徹が現れるからであり、ドラマチックな仕掛けや情緒なども吹き払われ、ただ曇ったガラスを拭ったような仕草の余韻だけがある。おそらく彼の肉体的知覚は、操作というデバイス表象の脇で、恣意を注ぐしか無い絵画的構成をむしろ脱ぎ捨てるという意味で、別なことを軸に活性し、選択と決断を与えているように思える。

ーこのひとの写真は、画面のスミからスミまで、まったくフラットである。絵でいうヴァルールやマチエールというものがまったくない。人間の目は、視界に入るモノすべてを一律に、等価値に、同時に見ることは不可能である。そこかに焦点を合わせているから、その焦点から遠いところほど、モノの輪郭はぼやけているのが普通であるー

とつづく富岡多恵子の時評は、当時の高度成長を遂げつつあった世界把握として示唆に充ちているけれども、既にわれわれは現在フィルムの歴史を終えデジタルに移行し、超高感度のレンズが外宇宙に向けられ、遠大な過去の光を検証する時代に生きているという意味で、人間の肉体における写真の使い方と解釈の位置ははかなり変異しているといっていい。

 写真作品を出力した作家は、勿論どれほど精密にカメラとレンズは世界を描写するかという頓着に神経をすり減らしているわけではないし、自身の肉体的に見えることを傲慢に示すわけでもない。レンズという非身体的な道具を使って、いかなる静止光景という思想をかたち作れるかという検証を、日々の生に取り入れ継続している姿として作品は並べられ、それをみつめるわれわれは、彼のレンズを磨いたスピノザのような姿勢を感じるだけにすぎないのかもしれない。故に彼の作品から情緒的なもの感じるのであれば、その情緒的なモノとは、彼と我々の等しく彼岸にある言明されたことのないものであって、これまで共有されてきたものと種類が異なっている。


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