前田聡子 Satoko Maeda Solo
30,September.2013 – 31,October.2013
11:00 ~ 20:00
at Haricot Rouge
トポス高地 アリコ・ルージュ 2013 06
TOPOOS Highland Haricoit Rouge 2013
欧風家庭料理店「アリコ・ルージュ」
長野県飯綱町川上 2755 飯綱東高原 飯綱高原ゴルフコース前
phone 026-253-7551
営業時間12時~20時30分
休館・定休日 火曜
http://homepage3.nifty.com/haricot/
小谷村で生きることを選択した写真家であるということが、彼女のすべての基本となっている。
日々の交流や作業それ自体の生活からの吐息、溜息も含まれて撮影されている作品は、作家自身であり、生そのものである。
現在個人は必ず携帯する携帯電話に備わったレンズで対象に向けて写真を撮影することは頻繁な日常となり、それを伝送し共有する写真で、コミュニケーションを活性し、写真を撮影する事自体は、差別的特権的なことではなくなった。併しこうした行為に欠落しているのは、写真そのものの検証であり、シャッターを押したその瞬間にその光景を終わらせるニュアンスが蔓延しており、万人が作家になる必要はないのでそれはそれでよいけれども、自らのシャッターをつくづく時間をかけて振り返る。この撮影の結果を振り返るみつめが則ち写真家を生成するのだともいえる。
今回展示されたほとんどの作品は人気(ひとけ)の無い背後から光を受けた路傍の草花であり、日々全身を被写体に投入する肖像ショットなども撮影している作家にしてみれば、かなり観念的に選別されたものとなり、これはつまり前述した自らのスタンスを強固に示す態度の顕われと捉えることもできる。
そもそも似たような環境で寡黙に生きている人間がいるのだから、敢えて生き方を示すということは、過剰な態度として誤解されることもあるが、写真という手法でひとつの実直な生き方を明快な顕われとして表出するのは簡単でないし困難は付き纏うものだ。蓋し修復と選択し決断する自由と倫理のこの時代に於いては、これはその精度と真摯なビヘイビアの蓄積として、これまでにない写真史を構築する可能性はある。足下の落葉や軒先のツバメの子らへ向けたショットは確かに生きている環境の生きている実感が伴った撮影であるけれども、それに説教節のような語りを加え、自らの現在を吐露する言説の他に、ふいに広がる普遍的な眺めと達観をいずれ共有し、「わたしの人生」が「われわれの人生」へ転化する兆しを孕む時を得るには、地道な反復の蓄積と、その検証持続の愚鈍ともとれる只管な時間が必要かもしれない。
日々深化を遂げるレンズカメラはある種非情であり、克明な高画質それ自体から退行する方向性も検討されている。そういう意味で撮影と写真に人間を憑依させ、その人らしさという家族でしか共有できない「柔らかさ」「優しさ」「気持ち」のようなことを封じ込めることのできる写真家は少ない。兎角傲慢な恣意を強引に焼き付ける勘違いの輩ばかりの中で、前田聡子という写真家の写真には、彼女そのものが備わっており、そういう意味で都度新鮮であたらしい。