丸山玄太 Genta Maruyama Solo
「相転移」
01,December.2014 – 31,December.2014
11:00 ~ 20:00
at Haricot Rouge
トポス高地 アリコ・ルージュ 2014 08
TOPOOS Highland Haricoit Rouge 2014
欧風家庭料理店「アリコ・ルージュ」
長野県飯綱町川上 2755 飯綱東高原 飯綱高原ゴルフコース前
phone 026-253-7551
営業時間12時~20時30分
休館・定休日 火曜
http://homepage3.nifty.com/haricot/
丸山玄太展示作品価格表 >> PDF (581kb)
鬱間主観2014 @ FFS (12/27~1/04迄) >>
ステートメント:
生きる気力を失った。理由など無い。昨日を振り返るのも、明日を見るのも、その意味を失ってしまった。一繋がりの時間の中で、過去にも未来にも生きる意味を失って、今を積極的に生きる理由など見つけられはしない。かといって死を選ぶ理由もない。認識の埒外の気楽さに期待をしないではないが、それを確認する方途はなく、幻想に浸ることもできない。だから、老人がそうするように、今の生をただ延長させている。何にも理由がないから今をただ延長させるだけである。
この状態を、生、と言えるだろうか。死とは異なるのであるから、やはり生ではあるのだろう。だが、死者が何に対しても無反応である、つまり何をも認識をしないという意味において、この状態は死と変わりはしない。つまり、死者のように生きている、のであり、これは、生と死という対照の併置が可能であることを指し示している。
我々の認識は、あらゆる事物を二元論的に扱う。形而上学的認識は、生と死のように、自然から神、人へとその対象を変えながら、それとこれ、という差異の認識に基づいた文化を発展させてきた(カーマインとそれ以外というような)。言い換えれば、差異に対する認識を強化してきた。それは、自然淘汰という原理の中で、脆弱な人類が社会を形成するために必要であった手段、選択した手段といえる。その結果、あらゆる生物・資源を駆逐しながら、人口七〇億という世界を現在形成するに至っている。
では、認識以前(原始社会以前)はどうだったのだろうか。生と死を認識しない(選択しない)ということは、先にも述べた通り、死者のように生きる、ということだ。これはあまりに消極的過ぎるであろうか。認識とは無関係に、地球は回り、空腹はおとずれ、眠りに落ちる。生は知らずに与えられ、生そのものが生の基盤となる。しかし、差異を認識をしない限り、すべての価値は等しい。生も死も、神も人も、これもそれもあれも。すべての価値が同等であるなら、裏を返せばすべては無価値であるということでもある。したがって、私たちが獲得し強化してきた差異の認識は、無価値の認識からの逃避、とも言えるのではないだろうか。
このことは、だからこそ人類は社会を形成してきたという自己矛盾を孕んでもいる。しかしながら、認識を強化してきたことは間違いない。これは円環運動ではなく、前時代の認識を改良、改革することによって無価値から徐々に遠ざろうとする螺旋運動である。だがしかし、遠ざかっているつもりで、実は近づいてしまっている。
現代国家の殆どがベンサムを創始者とする功利主義を基本理念とした社会体制をとる。無論、この国も民主主義という政治思想だ。「正しい行為や政策は最大多数の最大幸福をもたらす」という原理は、最大幸福は正しいとも言え、この正しさは、法治国家であることから規則にある。だが、規則とは個々人の安全を担保にした幻想である。正しさの尺度など立場によって反転することは人類の歴史がそのまま示してきた。また、現代のように多様化した社会においての幸福の共有は、欲するものが多種多様である以上、少ない。あるいは無い。そのために、ヒエラルキーにおける管理者は現実を小出しに提示し、幻想的未来像を提出する。
このように、現在に至っては幻想だけが並べられた状態である。最大幸福も正しさも如何様にも差し替えが行える。通貨のように、それが清浄であり、価値の創出が可能であると虚像を見せられている。しかしながら、個々人は安全を担保に差し出しながら、効用の最大化を望んでいるだけで、このまやかしに見てみぬふりをする。過度なリスクマネージメントからなのか、諦めからなのか、そう教育されてきたからなのか。何れにせよ、無価値であるという認識から逃避してる。このように我々は、無価値から離れているつもりで無意識に近づいているのである。当然の帰結として、この社会がパノプティコン化するだろうことが考えられる。それが、幻想へのすり替えを行う者の効用を最大化するのだから。
ここから逃れるには、無価値の認識を認識しなければならない。逃避を終え向き合わねばならない。生と死の対照性はある視点からのものであり、先に述べた通り、位相を変えさえすれば併置は可能である。これは、価値の二重否定であることは明白である。ただし、円環としての二重否定ではないことは肝に銘じなければならない。文 / 丸山玄太
以前より映像で圧縮跳躍する「時間論」を展開していたとも考えられる丸山の、今回の自家出力による静止画像作品が示すかたちは実に変哲のない素材と行為で準備されたものであり、何処か遠い惑星の丘陵のランドスケープを思わせる想起が素材の現実感を凌駕している。あるいはまた対象素材の極点を示すタイプも併置されており、これは材の質が顕微鏡のような切り取られ方で知覚の限界に置かれてある。
写真という静止画像は、時間の内では「死」と等価である停止を顕著に示し、凍りついた一瞬という人間の体感では非現実的な有様であるが、そもそも人間の認識は、言語も絵画や彫刻も然り、停止した切断面に於いてのみ思考を与えることが出来るのだともいえる。だから人を石化させるメドゥーサの一瞥は、人気(ひとけ)を滲ませる絵画や彫刻と比較して、より写真そのものの残酷を示しすわけであり、丸山の一瞥という恣意的な行為性が幻影へと翻る(あるいはひっくりかえる)こと(「相転移」)にまっすぐ一途である手法となって、逆説的に作品の際どい、脆さと儚さ故の明晰を運んでいる。固有な表出が恣意の元で行われる自明を、今更迷うことは凡庸な取り組みであるが、恣意の行為性と表出のレヴェルを測る作業的な制御を手法化させれば、端的に非凡な路往きが展くことを、丸山の作品は教えてくれる。写真というものは、撮影から出力に至るまでデバイス性能に依存するのが、現在的な写真の構造論だが、丸山の手法は、この一般的な写真論を解体し、関わる側の関与の仕方によってこそ、現れる静止画像が都度新しい「時間論」へと「転移」できるのだという帰結を示すわけだ。
丸山の写真の行為性は、蜜蝋の雨が降り霊性がかたちを顕したメダルド・ロッソ (1858~1928) と何処か似ている。
文責 町田哲也