松本直樹 Naoki Matsumoto Solo
「魔法使いと魔女」
01,November.2014 – 30,November.2014
11:00 ~ 20:00
at Haricot Rouge
トポス高地 アリコ・ルージュ 2014 06
TOPOOS Highland Haricoit Rouge 2014
欧風家庭料理店「アリコ・ルージュ」
長野県飯綱町川上 2755 飯綱東高原 飯綱高原ゴルフコース前
phone 026-253-7551
営業時間12時~20時30分
休館・定休日 火曜
http://homepage3.nifty.com/haricot/
松本直樹展示作品価格表 >> PDF
オブセオルタナティブ 2014 AVEC (11/11~11/19迄) >>
ステートメント:
expressionの表現という訳語は、あまりうまい訳語とは思えませぬ。expressionという言葉は、元来蜜柑を潰つぶして蜜柑水を作るように、物を圧おし潰つぶして中身を出すという意味の言葉だ。
――小林秀雄「表現について」当展のタイトル「魔法使いと魔女」は、ヒップホップの始祖の一人で、その名付け親でもあるアフリカ・バンバータ(1957-)の曲名 “Warlocks and Witches, Computer Chips, Microchips and You” から借用しました。
バンバータは、1974年11月、黒人の創造性文化の四大要素〈DJ、ラップ、グラフィティ、そして、ブレイキン(ブレイクダンス)〉を総称して「ヒップホップ」と名付けます。(ですから、今月はヒップホップの誕生月なのです!)そのバンバータに先立ち、ニューヨーク、ブロンクスのDJであったクール・ハーク(1955-)は、『メリーゴーランド』と呼ばれるを技法を開発しました。それは2枚のレコードを併置し、各々ビートのかかった部分(その多くは曲の「間奏」)――つまり「ノらせる(=人を踊らせる)」部分をカットアップし、つなぎあわせるという方法でした。これが「ブレイクビーツ」の発明となったのです。
クール・ハークはダンスブレイクを延長し、ダンサーを踊らせ、MCにラップをする機会を与えた。彼はヒップホップ文化革命の基盤を築いたのである。
――ヒストリー・ディテクティブス(アメリカのテレビ番組)「ノらせる」部分の延長――すなわちヒップホップの誕生は、聴衆の「ブレイキン」をいかに持続させるかという命題によって成立したジャンルともいえます。ヒップホップ[HipHop(=ケツがとび跳ねる)]とは、その名の如く身体を猛り狂わすビーツの「濃縮液(オランジュ・プレッセ)」なのでした。リスナーやダンサーたちは、このグルーブに体をまかせ、壊れるほどに身をよじらせるのです。
さて、ブレイク[Break]とは、壊す・割る・砕くという意味の他に、前述、ダンスブレイクという語用からもわかるよう「休憩」という意味もあります。曲の間に入る間奏(=Break Beats)では歌はお休みとなります。
画家のアンリ・マティスは「私は人々を癒す肘掛け椅子のような絵を描きたい」といいました。すぐれた肘掛け椅子が身体を「休憩」させるよう、自身の絵画が観るものの疲れを癒すようにと願ったことばです。
わたしの作品は、マティスのような巨匠と比較するにはあまりにも拙作ではありますが、それでも会場を提供してくださっているアリコ・ルージュさんのおいしいコーヒーを飲みながら、ゆっくりとご高覧頂ければ幸いです。
コーヒーは、もちろん「ブラック」で。文 / 松本直樹
所謂「金継ぎ」を想起させる松本の「修復」作品は、この国伝統の美的修復の耽美とは異なっており、西洋などの「復元」でもない。必ず対となった(時には複数の)対象の部分の入替えと、あるいはまた抱き合わせが行われ、解体も恣意的であり、生活の偶然を生活へ戻すためのものではない。
接着材料も「金」のような絢爛繊細ではなく、絵具、セメントが使われている。形態も元通りに戻さずに、捻られ曲げられ、「元通り」ではない自明を示す。311震災以降、再生論を批評する意味での修復論が盛んとなり、その修復とは再現とか立ち戻ることではなく、新しい状況を創出する意味合いが強く全面に押し出されているが、実際は誤解と錯覚がその意味合いを曖昧にさせている局面がある。伝統の「金継ぎ」を模倣する以前の西洋の「復元」技法は、復元の手付きを隠す、あるいは目立たせない工夫が凝らされ、言わば「壊れていない」状態を捏造していた。茶の世界で浸透成熟した「金継ぎ」は、壊れを自然の状態の部分として受け入れ、その修復進行自体を愛でるという姿勢が、現在も評価されているわけだが、松本の再構築「修復」作品の醸すものは、「金継ぎ」とは似て非なる「遺伝子組み替え」「臓器提供」「生活空間のシェア」など現代的な構成の不安とその思想の脆弱を敢えて示していると考えることができる。
またあるいは、敢えてキッチュなオブジェを一旦破壊するという行為性を観ても、破壊的行為の悲劇性を現代の倫理として「検証」の手法のひとつと捉えることもできないことはない。言うなれば脱構築以降のロジックとして、「全面的に疑う」ことからはじめるという思考回帰でもあり、これはアンチグローバリズムの統合論批判として、生成される異様な現象をこそ吟味し、命名すべきであるという、逆説的な意味では文脈内省する過程と積極的に受け取るべきかもしれない。
このような松本の創作と構想の仕草の結実が、ひとつの美術作品として顕われる時、ヨーゼフ・ボイスが金(権威)を溶かして偶像再生した時代とは全く異なった時代に生きる心地がするのは、私だけではないだろう。
文責 / 町田哲也