DIIM / Mamegura / Chika Matsuda,Kazuya Osame

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鬱間主観 / depression intersubjective installation meeting
2013年 秋

ギャラリー豆蔵 / 20,October ~ 27,October.2013 / 松田朕佳・納和也
〒380-0841 長野市大門町 518
http://tutinotoko.blogspot.jp 12:00〜17:00

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松田朕佳
「膨らむ空気、拡張する線」2013年。腸と空気。サイズ可変 ¥100,000


個人的なことだが松田朕佳の腸のインスタレーションをみるたびに、オノヨーコと高柳恵理(1962-)を憶いだしていた。(i gallery 2011) / 立ちどまる時、流される日々 (2004,2005,2006)

繰り返して様々な場所で云われるように、美術や文学などの芸術が時代の先端を誇らしげに示して倫理的道徳的な問題をも提起しつつ人心の好奇心を煽って都度予見的先見的な道標となり得る近代的な構築の時は終わっている。それでも生きてやるという気概のようなものに支えられて感応(官能でもいい)の表出を行う作り手は絶滅するわけではない。ここが面白いところだ。大衆という概念も実際も随分おしとやかに多様化し、固有なバイアスによる生理や必要や選択が可能となり、言わばマイノリティーの自由はその生存可能性において確保されている。そういう意味で絵を描き彫刻を行う人々の辛うじて持続可能な営みは臨機応変なものともなり継続の為の枠組みを前提とする場合もある。但しそのほとんどが開放的なシステムを持ち得ないことが問題とされる。要するにJ.POPなどと比べればマイナーなのだ。
おもしろいことなど何もないとはいっても実は心を動かされ、非日常的な時空を垣間見て密やかにときめく場所を、私は都度「近所」に確保したいと考えている。そういう意味で近未来的なビジョンとして松田をはじめ才能溢れるビジュアルアーティストを散逸させずに、ローカルコンテンツの筆頭に挙がる「リアル」として、場所自体が大きくサポートすべきだと思う。

松田朕佳のスタジオに隣接するスペースと若い美術作家中村明の主催するギャラリー豆蔵にて行われた松田のインスタレーションは、臓物を使う新しい試みとなった。生物(なまもの)を使う作家としてHermann Nitsch (1938~)、Damien Hirst (1965~)、Joel-Peter Witkin (1939~)などが浮かぶが、彼らのコンテクストは、勿論松田の腸とは全く異なっているが、彼らの作品を想起させたという意味では、今後松田自体の彼等の取り込み方次第という楽しみも生まれた。今回のプロジェクトを前後して、戸隠地質化石館に幾度となく足を運び丁度麒麟の骨格標本制作や解剖の現場などに彼女は介入し狩人が持ち込んだ鹿の足を手に入れるなどの機会が松田にあって、それまで海外から密かに持ち込んだ蝶などとは違った「近所」が仕入れ先となったことも大きいと思われる。

生物は腐るのでダメだろうと考えたのがいかにも現代的浅薄な人間の考え方だった。萎縮するけれども実は硬化して砂漠の死骸のような遺り方をする。腸の皮膜の生存吸収の為の細胞の模様も美しい。呼気を封じ込めてぶら下げると観念で浮かべるとなにやら妖しげ危なげな宗教臭が立ち昇るけれども、実際はポップで軽やかで笑みさえ浮かぶ。作家の踏み越えて行く行方を予想することは出来ない。松田に世界をどうにでもできる権限を与えることには賛成できないけれども、彼女はどうにでもできると思っているに違いない。


納和也 / 公開セッティング


納和也のインスタレーション

幼少から開拓地よりの遠路をバスに揺られて通学した特異な環境の生存ルーチンの線上で、家庭を持った途端の唐突な父親の喪失と連動した離婚から慣れるわけのない往復5時間以上の過酷な通勤の10年という時間を過ごす事で、突発性の意識喪失を伴う扁桃体の暴走である鬱病に罹患した納和也から深夜電話があったのは2年前のほぼ20年ぶりのことだった。
鬱病を根本的に治癒する方法は確立していない。気象気圧の変化に敏感に照応し脳の血流が上下し抗鬱薬服用に頼ってトーンダウンさせることの他に、経頭蓋磁気刺激法という電磁パルスによる前頭葉への刺激療法も開発されているが、この国では保険未承認。ハーブなどの利用や、光を浴びる光療法もある。機能障害を修復し治癒すれば元の状態に戻るという勘違いを棄てて罹患者は状態生存の道を歩まねばならない。
グラフィックデザイナーでもあったペンションオーナーの父親の影響もあったか、納はバブルが弾ける時期にアートとインテリアデザインを学び、後にIT系の業務に携わりながら、銀座でインスタレーションの個展を開催している。

制作ビヘイビアを全身全霊で作品化という一点へ集中させるという考え方は普遍的なことでなく単にひとつの指向でしかない。世界の獲得の仕方にはその能動の基本に広がる固有な都合と必要があり、時に緩い民族的な歴史の波の縁で淡々と行われる制作があり、時に固有契約によって衝動を守られた放下形態があり、多様であるが故の世界が累々と広がっている。そういう意味で納和也という固有の生としてのインスタレーション作品は、時に壊れた自己を管理するものとなり、時にこれまで開発されていない治癒の手法ともなり、梲が上がらない状態の告白ともなる。

箱をこしらえてモノを並べ、木炭紙を並べ同じように描くのではなく並べるように線や事を置く。時空に身を委ねるニュアンスが見える形となる時、彼に宿る(あるいは同時に観る側に降ってくる)のはある種の穏やかさであるのかもしれない。インスタレーションには人間の状態を包み隠さずに露呈する勇気が率直に示されており、これは現代に於ける秘匿性への批判となる。普段の状態と一変する憑依のモノマネが頗る好評であるのが本人は嬉しいという。


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