DIIM / Hanagura / Naoki Matsumoto,Hisashi Ikeda,Nami Goto

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鬱間主観 / depression intersubjective installation meeting
2013年 秋

ギャラリー花蔵 / 20,October ~ 27,October.2013 / 松本直樹・池田久・ごとうなみ
〒 380-0831 長野市東町 147 phone:026-232-2324 11:00〜17:00 (開催時間変更)

*オープニングケータリングイベントパーティー:10/26 (土曜日) 18:00~ 於:ギャラリー花蔵

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松本直樹
「星屑」2013年 ドール、プリント布、鋲 ¥6,000—¥13,000


ヘーゲル的批判精神を現在に照射するような青さ溢れる松本直樹の作品は一見スノッブだが、考えようによっては背反ベクトルが示されている。「美術」というフォーマットを信じて耽る様々な手法を切断し批判するかの、単なる繋ぎ方のようなありふれた仕草で、無様なモノから意味を剥ぎ取りあるいは意味そのものを笑う。併しこの笑いの諧謔が積み重なるとなかなか滑稽を超えるものが顔をだす。シニカルと短絡表象されるのはおそらくこの国の「切腹」へと昇華した精神文脈があるからで、彼の責任ではないと考えたいし、むしろ彼のやんちゃを排斥すること自体が古臭いスノビズムである。

モノを弄り触れてモノを事に変異させその過程や結果に満腹感を覚えるという指先のクラフトワーカーではないと宣言する態度自体を作品化させる彼の戦略の、類似表出は蕩尽されていると批判される場合がある。だがこの浅薄な認識では世紀の終焉と終わっているはじまりという世紀を生きる極東のロストジェネレーションが生成する灯りのような萌芽を見いだすことはできない。


欲望の対象を神聖化することによって、欲望は相矛盾した二つの命令の法に従属される。彼が模倣するモデル(引力の極)は、同時に、彼の満足の妨げとなるもの(斥力の極)なのである。――ドゥニ・オリエ『聖社会学』
[1]…ある順序によって組織化された既存の事物(集合)から、それらを構成する部分の「未だ何者かに隷属されえていない交接可能性」を見出すこと。
[2]…この見出された「交接可能性」というリソースを使い、演繹的に事物(集合)を構築しなおすこと。
もしこの時、作品が存在できうるとするならば、部分同士に(相互に)干渉しあう斥力を『法』として練り上げることのできる、その倫理的瞬間においてのみである。つまりは、様々な斥力(心理的嫌悪/物理的抵抗)を、あらたな順序として、いかに構造づけることができるかにかかっている。

松本直樹のステートメントにある「未だ何者かに隷属されえていない交接可能性」で「様々な斥力(心理的嫌悪/物理的抵抗)を、あらたな順序として、いかに構造づけるかにかかっている」実現をビジネスモデルではなく敢えて作品と呼ぶことは、彼が作品化という表明に於いて、普遍(ステージ)を取り戻す無邪気な活力を示しており、ー 干渉しあう斥力を「法」として練り上げることのできる、その倫理的瞬間 ー への憧憬のナルシスが、松本のアポロ宇宙船で風呂を沸かすような可能性そのものであるといっていい。斥力の構造倫理が見える形になる時、ヘーゲル的な体系欲求からカントへと向かう気がする。


池田久


ごとうなみ
「まだ」 シナベニア ペン セラムコート 土 墨 2013年 ¥100,000


折れた色鉛筆の芯の先を鮫の歯のように金属の上に並べたオブジェは、色彩の水平帯が土で囲まれた紡錘楕円の中に並ぶ平面の横に置かれた。インスタレーションという括りですが平面となりましたと澄ました表情でセッティングするごとうなみの作品構造をよくみれば、素材と行為と色という要素と効果が混濁せずに重なって置かれてある併置仮設とも屁理屈は言えた。この奇妙な作品との距離の取り方によって淡々とした小さなストローク線描行為の痕跡が浮かび上がり、後ろに身を引けばそれが喪失し別の啓示的なイメージへと変化する。近寄って部分に注視すると全く別のビジョンが多様性を抱きかかえるように広がる。私には日本海がみえる。寒色系と暖色系が併置された。

同時期に別の場所(MCAF2013)で展開され驚かされた土の柱の作品があり、その脇の隠れたスペースに土だけを排除した色彩水平帯の集積作品が置かれた。数万年前の戸隠の土を素材として茶器の上に載せられたキャバブのような歪んだ柱の一部分から内部の何物かがプリンと顔を出している。

ごとうなみがここ数年取り組んでいる風船を空間に充たすインスタレーションが非公開にて倉庫スペースで行われ、コンプレッサーで膨らんだ数種類の大きさのエイリアンの産卵は他の作家作品を覆うかに倉庫空間の床に広がり、一頻りしてドアから吹き込んだ風によってふわっと片側へ寄せられたものは、軈てひとつづつ激しい破裂音でパンパンと多元宇宙の消滅の無慈悲な残酷感を潜ませて潰される。破れたふうせんの残骸はすべて回収され別のスペースで破れた夥しいコンドームにも眺められる、始まりと終焉が象徴される廃墟のように無造作にインスタレーションとして再構築セッティングされた。

鬱間主観プロジェクトでの作品展開の経過を辿るだけで、彼女の闊達な創作精神の脈動のようなものを感じる。作品をそれぞれ個別に言及するのは別の機会に譲るとして、この特異な時間軸にて自らをあからさまにしようとしている姿が空間を共有した人間に及ぼしたことは、観念的な世界の把握や認識を示すことではなく、彼女にしかできない世界に触れる作法のような身振りであり、存在そのものの力の気配だった。このような作家を他に知らない。

オリジナルのスタイルを求めその反復で成熟する作家性が美術家を堅牢に仕立てるとされているが、得てして狡猾なオリジナルの保身が閉塞を纏い嫌味となる。ごとうなみの変容する作品群を支える仕草には大袈裟なものはなにもない。日々の生活の営みのような静けさで、謙虚に且つ余計を省かれて重ねられ大胆に提示される。作品を眺めるたびに感じたことのない開放系の印象が差異を伴って訪れるのは、「ただそうしている」という姿勢がストイックにパッケージされる衒いなど微塵なく払拭されて、あるがままの彼女自身の内側からの艶のある吐息のようなものだからだろう。幾度か彼女自体がまるで防御層を持たない繭から這い出す幼虫の柔肌のような魂を惜しみなく目の前に注ぐ宿命の生き物に思えた。


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