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初日のシンポジウムで美術家の結城愛が松田朕佳の今回の作品に関して「造形的でないところが良い」と指摘した。店に行けば簡単に買う事のできる製品を至極変哲無く使用する仕様のインスタレーションは、美術館中庭の東西に対峙するガラス窓を細い糸で結んでいる。その糸自体の構造にしろ、結ばれ方そのものの在り方を殊更に示すというより、実にフランクに(若干の屈託はあるが)端正なひとつの挙措として放られて在るものだが、では「造形」とは何かと、シンポジウムでは問いが参加者の宙に浮かんだようだった。企画発動当初現地視察を行った折に作家に降ったものは「音」であり、大きなガラス板を共振させる構想も重ねられたが。フィンランドへのレジデンスからの帰国後に、シェイプアップしたインスタレーションとして、現象化への構造は省かれた。けれども構想の原理にはじめから在った様々な悉(ことごと)、出来事、人間や事物の、「間」という状況世界に対する関心と追求のカタチとして継続展開され、両足両耳を示すパフォーマンスを初日に加えて更に人間的な知覚(肉体)を、「聴き耳を立てよ」とばかりに視覚化させたかったのかもしれない。ひとつの仕草つまり挙措が、あたらしく瑞々しく人間の享受に広がる「造形」あるいは「表現」的な手法としては、ひとつも新しいものなどないし、先に引用した結城の言葉どおり、非造形的な展開が、空間を黒板へ位相させた直接的な環境への提示(プレゼンテーション)という可能態となって、普段は意匠に整っている中庭が「思考展開の実験室」と成って人々に届くかもしれない。得てして「美的」でないことが「藝術」を新たに書き換えることは、歴史が示している。併し設営が日々壊れるインスタレーションの脆弱があり、学芸員の方々が都度修復されている。これは作家の責任として、再考を促したい。瓦礫となってしまってもいいという意向が作家側にあったとしても、「造形的」でないものが更に日々「ゴミ」となるがままにさせておくのは、企画を責任展開する美術館としても、企画を継続的にと考える者(文責者)にとっても、これは非礼である。二ヶ月という長期に渡る企画展だけに、その経緯する時間自体を、進捗する展開次元として、インスタレーション自体に組み入れるべきかもしれないと、今回企画を俯瞰する者として重ねて検討しようと感じている。作家が自在であるという鮮明さは、自由であるだけでは足りない。伸びやかな環境に対する繊細な配慮も同時に成熟させていただきたい。加えておくと人間介在的な「造形」とは何かと云えば、藝術となる「造形」もあれば、そうでない単なる「造形」もあるということだろう。
「恣意」「恥」「衒い」などという、自己表出に関わる抑制のあれこれが、この国の精神的なコンテクストでは度重なって習俗や言説に登場する。外の世界の例えば地続きの国境や人種差異の緊張から当然発生する「個」の権利、自覚、プライバシーの尊重と相対して、大陸の東縁のこの島国では、個人よりも集団の調和が優先する歴史があり、これが様々な慣習や組織変成や、ものの理解の精神構造に染み渡っており、個的固有な突出を控える態度を良しとする教訓もある。だからといって、禅的な観念を我侭にごり押しして、寡黙であることや、饒舌でないことが、美的であり正当であるような姿勢は、無いモノを隠す秘匿性を滲ませて、浅ましく見苦しいものだ。この表出享受の加減に日々蒙昧する仕事が作家業ともいえるのではないか。と考えたのは、川合朋郎の今回の企画の為に制作された新作「始まり 洞窟を出ると決めた人々」が、これまでの作家作品の中でも、無骨さと荒々しさが、松田の「非造形」とシンクロするかに出現し、彼の作品の特異な傾向として時間と共に(眺めの時間経緯とともに)、享受自体が変容成熟し、作品のいわば「不完全さ」が、ようやく場所に根を張っていくようだったからだ。画家が描くことに頓着することは当たり前だが、描写しているだけではない。一振り一振りの筆痕は、画家自らの排泄物であり、それを自覚しなければ、排泄を綺麗ごとに変える捏造が彼の仕事になってしまう。つまりどうしようもない嘔吐(サルトル)との壮絶を記録する仕事ともいえる。トポス高地2014_04 同時期個展開催中の美術家のごとうなみと川合朋郎が、作品制作の距離感について意見交換をする時に居合わせて、制作が終われば観客の目と等しい距離で眺めていると説明した川合の言葉と、作品そのものが自分自身であるとするごとうなみの実直が交錯し、こちらとしては、蒙昧な足掻きをそのまま制作とする作家の日々孤軍奮闘が、こうした交換享受で、戒められあるいは蓄えられるのだと、彼らの近い未来に目を細める羨望の目付きを隠さなかった。今年11月にマツシロオルタナティブと同期予定しているオブセオルタナティブ参画作家の松本直樹進行で行ったシンポジウムは当初、美術館の機能性としての具体的な計画展開するオルタナティブを、作家がどのように捉え、またあるいは環境がどのように関与していくかを、鮮明な言説批評として記録したい意向がこちらにはあったが、松本の「現在的な状況の俯瞰」の認識を促す、状況概説に時間を割く事が、むしろ差異を明瞭にしたのではないかと考えている。
文責 / 町田哲也